赤間ヶ関阿弥陀寺(今の赤間神宮)に芳一といふ名の盲人が住んでゐました。琵琶法師としてあまりにも有名であったので、妙技入神の言葉のやうに、平家の亡霊も是非これを聞きたいと、或夜ひそかに現われて来ました。阿弥陀寺に住んで居る琵琶法師の芳一は、呼ばれるまゝに、誘われるがまゝに引かれてゆけば、七まがり八まがりの廊下を辿り大広間に通されました。居ならぶ武士等は威儀を正して待って居り、正面の御廉の中からは「御苦労であった、壇之浦の合戦を弾奏せよ」との事で、弾奏すれば厳然としてゐた武士たちは涙を流し婦人等は嗚咽の声を出して泣いてゐる。芳一は自分の琵琶に半ば陶酔しつゝ其の曲を終った。「実に今日は満足した、又明日も明後日も、七日七夜は必ず頼むぞ。」と頼まれて別れをつげて、寺に帰りました。 かくて毎夜外出することが続きましたので寺の僧侶も、ふと気のつく所と成り「是れは不思議だ、盲目の芳一が毎夜琵琶を抱えては出てゆく果してどこへゆくのであろう……と張り込みして時の来るのを待って襖の蔭からぢっと息を呑んで見て居りますと、だれも居らないのに一、二言ものを云ったかと思うと、ふと出てゆきました。僧侶は直ちにあとをつけたが、ヨウとして姿が見えません。 止むなく寺に引返して参りますと、山の森の中で琵琶の音がけたゝましく聞えるではありませんか!アレあんな所に芳一が、!と大急ぎに草を分けて馳せ寄りますと、又驚きました。目の前は真暗やみの中にお墓の前に単座して、一生懸命に弾いている芳一は、此の世の人とも思えぬ形相で、あたり一面は鬼火がゆれ、其の凄惨なること二た目と見られません。僧侶乍らも身の毛のよだつおもいが致しました。 之を呼び起し芳一をかゝえて阿弥陀寺の和尚の前に事の一部始終をかよう〜と申し伝えますと和尚は大層驚いて、「これは平家の亡霊が恨みを以って一人でも彼の世につれ去ろうとするのだ、今宵は声を出すな、動くな、返事をするな」と固く申し渡し、身体中に般若心経を書きつゞりました、「さ、是れでお前は安全だ」と申し置いて法事に出られて行ってしまいました。その夜のこと、 いつものように単座していると、又昨夜のようにやって来た気配がする、生ぬるい風と共に足音がピタリと自分の前で止った、「ハテ」とおもう裡に「芳一」と呼びかけられハッと声をあやうく出そうとして和尚の云う事を思い出し口をつむんでいるうちに、又も「芳一」と半ば大声に呼びかけられました。然し今度は、返事も声も聞えませんでした。「今宵は声も、返事も無い、姿すら見えぬ、ハテ如何した事であろう」とフト見ますと耳だけが闇夜にはっきりと見えました、「せめてもの是れだけなりと持って帰ろう」とつぶやき乍ら、鉄の氷のような、つめたい手先で耳を持ったかと思うと、フイともぎ取っていずれともなく立ち去りました。 和尚は今日こそは芳一も無事であったろうと寺に帰って、ふと襖を開けて、驚いた、アッ!と云うたまゝしばらく范然としていましたが、耳の無いのを見て、「鳴呼全身に経文を書いたが、耳に経文が無かったからだ」とつぶやき乍ら、命びろいをした喜びに、全山の衆僧総員して、よく亡霊を弔ったという事でございます。 爾来是れを「耳なし芳一」と呼ぶように成りました。