私たち 「那由他の会」 は、今を去る1995年1月17日に起こった、あの忌まわしい
「阪神淡路大震災」に端を発します。そのころはまだこんな活動になるとは思っていませんでしたが、震災の直後ある団体を通してボランティアに参加し、炊き出しの奉仕をさせていただいたとき、被災者(無礼な言い方で申し訳ありません)の方々の、あの
「ありがとう」 という言葉と笑顔、そして、ボランティアに参加されていた沢山の方々の生き生きとした姿に、「自分たちにも出来ることがある。」そう思ったのがことの始まりです。
それから数年「何か出来ることはないか」といつも考えていました。個人的には何かあるにつけ 「そのときどきに出来ること」 をしてきたつもりでいましたが、いつしか 「そんなことでは駄目だ」 と思いはじめました。「困っている人の手助けをする」などと思い上がっていた自分が無性に情けなく思えてなりませんでした。「人のために」 なんておこがましいことが良く今まで言えたなぁと感心すらしてしまいます。 「自分のために」「今の自分を造ってくれる何かのために」、もっと近いところから、もっと日常から見つめ直さなければ・・・。 そう思い出したとき、ふと気付けば自分の周りにはたくさんの「仲間」がいました。 あの震災の時に一緒にボランティアに参加した仲間たち。その後もいろんな日常の中で支えてくれた仲間たち。そんな仲間たちが集まって「那由他の会」の母体がだんだんに出来上がって行きました。 そして、平成12年4月。「那由他の会」が発足しました。 まだまだほんの赤ちゃんで、何一つ出来ないけれど、「今の自分に出来ること」が常に私たちの目標です。自分たちの周りの「たくさんのありがとう」に、ほんの少しでも恩返しが出来るように、一生懸命に今を生きよ うと思っています。 |
「那由他の会」発足から4ヶ月が過ぎました。その間「有珠山の噴火」「三宅島の噴火」(神津島でお亡くなりになった方のご冥福をお祈り申し上げます。)と、災害が立て続けに起こっています。避難されているたくさんの方々の安否が気がかりですが、早く沈静化して元の生活を取り戻せることを祈っています。
今年7月、遅ればせながら有珠山を訪れ、少しですが皆さんから集めたお金を役立てていただけました。そのときに現地の方のお話を聞いてまた考えさせられることがありました。震災と違い「火山」の噴火という災害は、私たち火山を知らない者にとって、想像だにしない重圧を与えるのだと知らされました。火山と共に暮らす方々にとって、火山はなくてはならないもの。生活そのものの基盤なのです。それが一度噴火すれば生活のすべてがストップしてしまう。観光やその他の火山を中心とする産業の基盤が、その同じ火山の噴火によって崩れてしまう。この複雑な思いは、私たち「火山を知らない者」には想像すら出来ませんでした。 災害はみんな同じだと思っていたら大きな間違いだと言うことを改めて思い知らされました。また一つ反省と今後の糧が出来ました。有珠山の方々に感謝です。 |
このところ「愛知県の水害」「鳥取県西部地震」など、他にもたくさんの災害が日本中で起きています。いったい日本はどうなってしまうのか予想もつきません。幸いにして死傷者が少ないのが救いですが、逆に犠牲者が少ないことが原因で、遠く離れた方々に「現地の状況が伝わらない。」「すぐに忘れ去られてしまう。」というような悲しい状況を生んでいるようです。三宅島の噴火ではまだほとんどの方々が避難生活を送っておられますし、復興宣言をした有珠山でもまだ家に帰れないでいる人がたくさん居られます。鳥取県西部地震の被害が大きかった地方では、未だビニールシートの青が集落の殆どの家を彩っています。
「気の毒には思うが、離れているから関係ない。」そう思いがちですが、今の日本、どこが被災地になってもおかしくないくらいに災害が立て続けに起こっています。「いつなにが起こっても柔軟に対応できる」なんてことは到底出来ないかも知れませんが、「もしも自分が、自分の家族が被災者になったら・・」 そのことを考えるだけでも災害に対する考え方が少なからず変わることでしょう。 いつ自分たちに降り罹るかわからない災害にどう立ち向かうのか。被災者に対して様々な思いを巡らせ災害に対する最低限の知識を持つことが、明日の自分や家族のためにどこかで役に立つと信じています。 |