ふるさと偉人伝

仁科芳雄博士略歴

明治23年12月06日岡山県浅口郡新庄村浜中、仁科存正氏の四男として生まれる。
明治30年04月新庄小学校(現里庄西小学校)に入学。
明治34年04月生石高等小学校にに入学。
明治38年04月県立岡山中学校に入学。
明治43年09月第六高等学校に入学。
大正04年04月東京帝国大学電気工学科に入学。
大正07年07月同校を首席で卒業、恩賜の銀時計を受く。
大正07年07月財団法人理化学研究所研究生となり、同時に東京大学大学院に入学、2ヶ年学ぶ。
大正10年04月理化学研究所より海外留学を命ぜられ、渡欧す。
大正10年10月英国ケンブリッジ大学にてラザフォード教授の下で物理学研究に従事す。
大正11年11月ドイツ・ゲッチンゲン大学に留学、理論物理学研究に従事す。
大正12年04月デンマーク・コペンハーゲン大学、ボーア教授の下で物理学研究に従事す。
昭和02年11月ドイツ・ハンブルグ大学にて理論物理学研究に従事す。
昭和03年12月北米経由帰国す。
昭和05年11月理学博士の学位授与さる。
昭和06年07月理学研究所主任研究員となる。
この間、有名な「クライン・仁科の公式」を完成し、日本の物理学の中心的存在として湯川秀樹、朝永振一郎両博士(いずれもノーベル賞受賞者)などの育成に尽力した。
昭和12年04月23トンのサイクロトロンを完成。
昭和19年01月200トンのサイクロトロンを完成。
昭和20年08月8月6日広島に新型爆弾がおちると、ただちに調査団長として広島におもむき、これを原子爆弾であると断定し、政府に報告して大戦終結のいとぐちをつくった。
昭和20年11月博士が心血をそそいでつくった二つのサイクロトロンは米軍の手により破壊され、東京湾に沈められた。
昭和21年02月文化勲章授与さる。
昭和24年01月日本学術会議副会長となる。
昭和25年08月郷里に展墓し、里庄公民館にて講演す。
昭和26年01月10日東京都にて60才で病没す。